遊び続けるために:遊戯とGAMEとPLAYと再生
著者: 犬飼 博士英語のGAME。「遊戯」と翻訳されたゲーム。テレビゲームの省略としてのゲーム。
ここでは、どの文脈で「ゲーム」を捉えればよいのだろうか? 全部をいったりきたりしながら日本語でいささか曖昧な「ゲーム」を中心に、それをクリエイトすることを書くべきなのだろうか?「 ゲーム」をめぐるコミュニケーションはいつもここが引っかかる。少し切り口を変えてみよう。
他人が僕をどう呼ぶかはわからないが、僕本人はこれまで「クリエイト」よりは「プレイ」に主眼をおいて「ゲーム」に関わってきた。
「ゲームクリエイター」ではなく「プレイヤー」なのだ。
乱暴に翻訳するなら「遊び人」。楽しくてなんぼだ。プロのプレイヤー。
いやプロとかもどうでもいい。楽しくなきゃ。
次々に生まれる好奇心や欲望に刹那に満足できればそれでよい。
しかも、できるだけ無為なプレイがよい。
とはいえ、無為ではこの文章も書けないし、社会の中でドロップアウトして死んでしまいかねないので、少し「プレイ」について書こうと思う。結果的にそれが、あなたの役に立ってくれることを期待している。
「プレイ」と一口にいっても英語のPLAY はさまざまな言葉で日本語に翻訳されている。特にゲームの文脈では、「遊戯」と翻訳される。そうだ、GAME もPLAY も「遊戯」と訳されてしまっているのだ。これが日本語という文化なので受け入れるしかない。
日本には江戸時代から「遊戯」という社会学的な研究はあるが、いわゆる「ゲーム」を「GAME」と「PLAY」と明確に分けて考える研究は、1940 年代に輸入されたノイマンの「ゲーム理論」という数学の研究にしかない。PLAY は他の日本語にも翻訳されている。芝居では「演ずる」、音楽では「演奏する」、スポーツの世界では「競う」。このあたりはホイジンガやカイヨワによって分析され、ゲーム業界では中村雅哉さんや田尻智さんをはじめ多くの人が引用している。
もう1 つPLAY について注目すべき翻訳がある。「再生」だ。ビデオやオーディオ機器のPLAY は再生と翻訳される。これは非常にクリエイティブな言葉だ。「生む」という言葉が入っている。
「メカニズムを使って、何かを再び生み出す行為」、これが「ゲームをプレイすること」だといえる。プレイはとてもクリエイティブなのだ。
僕は生まれた時からゲームをプレイしてきており、今でも電子コンピュータを使って「何か」を毎日作っている。あなたたちも同じだろう。電子コンピュータじゃなくてもいい、貨幣経済でもいい。紙切れでもいい。自分の身体でもいい。それを使って「何か」を生み出す行為こそがプレイなのだ。遊戯した結果「何か」を生み出してしまうのがプレイなのだ。
そして「何か」もまた無為なほうがよい。意味が見出せる「何か」なんてすでにだれかに発見されているクリエイティブとは呼べないようなものだからだ。
ただ、注意しなくてはいけないこともある。
そのクリエイティブさは、時に悲しいものも生み出してしまうことがある。
人間が欲望のままにプレイしていった結果「WAR GAME」「戦争」というような悲しい「何か」を生んでしまうことがあるのだ。悲しいのは嫌じゃないか?
ゲームクリエイターやプレイヤーは、このことに細心の注意をはらわなくてはいけない。
一緒にクリエイトやプレイしてくれる友達たちを傷つけないようにしなくてはならない。
傷つけ合って断絶をしていけば、一緒にプレイする友達がいなくなり、どんどん生み出せるはずの「何か」が減っていってしまう。それは嫌だ。
スポーツには、こうならないテクニックを「スポーツマンシップ」として人から人へ伝えてきた歴史がある。
さすがは「ゲーム」の先輩たちだ。
イギリスの教育者ステファン・ポッターは自著『ゲームズマンシップの理論とその学び方』(1947 年)でスポーツマンシップを拡張しゲームに関わる人全てが待つべき精神として「ゲームズマンシップ」、さらには生きる人全てのために「ライフマンシップ」という言葉を使って説明している。
僕らはこの「ゲームズマンシップ」に則り、友達が笑顔でいてくれるように細心の注意を払い、自重しながらプレイをしなくてはいけないと思う。
それがゲームクリエイターが知るべきことだと僕は思う。