パーソナルコンピュータ」のころ
著者: 水上 恵太自分が「パーソナルコンピュータ」を触り出したのは、その名を付けたPC-8001(1979年)が世に出てきた翌年(1980 年)でした。
モニターも別売り、CPU は8bit、外部記憶媒体はオプションのカセットテープ(1,200bps)、メモリも16kb しかない。今となっては携帯電話にも劣る性能ですが、そんなコンピュータが168,000 円もしました。少なくとも中高生が気軽に買えるものではなく、他の生徒がするように、僕も地元ショッピングセンターの店頭に毎日触りに行っていました。
当時コンピュータは「なんでもできる夢の機械」というイメージを持たれていました。
自分は「『スペースインベーダー』(1977 年)ができるらしいぞ」ということと、当時出てきたYMO のような「自動演奏ができるんじゃないか。あんな曲が作れるんじゃないか」という期待から興味を持っていました。
しかし使い始めてみると、自分のプログラム(操作)で画面に文字や図形を表示し、それを思うとおりに動かせるというのはそれまでにない新しい感覚で、プログラム制作にのめり込んでいったことは言うまでもありません(余談ですが、ファミコンのインパクトは、一方通行のメディアであったテレビ画面に、自分の操作で画面上のキャラが動く、操作が反映できる、ということもあったと考えます)。
ゲームセンターに出入りしていた自分の、興味の根っこの1 つはコンピュータでゲームを(タダで)遊ぶというモチベーションでした。ショップの店頭では、自分でゲームを作り、それを店頭に来ている友人にプレイさせて横で眺め、問題点や新しいアイディアがあればゲームにフィードバックするという、小さなエコシステムが働いていたと(今となっては)感じます。ここで「人に楽しんでもらう。人に楽しんでもらえるものを作る」という貴重な経験ができたことが、後の進路を決めたと言っても大げさではありません。
そのうちPC の低価格化が進み、店頭に行って譲り合いながらPC を使うということもなくなりました。それからは、その頃創刊された『マイコンBASIC マガジン』などへの投稿や、「パソコン通信」といった、メディアやネット越しのコミュニケーションに移っていきます。
この頃のゲーム制作の話をします。今でこそゲームは分業制で、プランナーが企画を立て、デザイナーが絵を描き、サウンドが音を付け、プログラマーが組み立てるというような分担がありますが、当時ゲームを作ろうとすればプログラムを書けることが必須でした。どんなにいい絵が描けても、それを画面に表示するためにはプログラムが必要で、それを誰かに依頼できるほどにはまだプログラマーが世に存在しなかったためです(もちろん「○○ツクール」のようなものもありません)。
そのため、まずはプログラムを覚えたという方が多かったと思いますけれども、当時のコンピュータは電源を入れるとすぐBASIC が立ち上がり、その画面で直接プログラムを書いて実行できるようになっていました。そのBASIC 言語も、例えば1 行のプログラムを書くだけで画面に文字(Hello.)が表示されるように、コーディングからすぐ結果が得られるものであったことも、習熟を早められるものでした。これは、もちろん当時の処理能力の限界もありましたが、当時のBASIC はその後に出てくる他の言語のような手続きや宣言を必要としませんでした。「コーディング→画面表示(結果確認)」のスピード感は、思考を中断させることなく僕らの興味を持続させました。
その後「パーソナルコンピュータ」は“PC” と略されるようになります。近年PC の性能が飛躍的に向上したことで、プログラマーに最初から要求される知識のレベルも高く、言語仕様も複雑になり、新しくプログラムを学ぶ人たちの敷居を高くしています。
しかしコンピューティングの歴史を重ねてきた中で、我々にもそれなりの英知があります。昔のBASIC の手軽さを再現しようとしたHSP をはじめ、簡易言語やツール類も数多くできました。何より開発情報はネットで拾え、「やったことないけどできる」みたいな言葉が出て来る時代にもなりました。
まずは、手軽に始められるプログラミングから世界に飛び込み、ぜひ作り上げる喜びを知っていただきたいと思います。