コンテンツ文化史的にみるゲームの特
著者: 吉田 正高2009 年に「コンテンツ文化史学会」という学会を設立しました。コンテンツ文化史学会では、アニメ、漫画、ライトノベルなどとともに、ビデオゲーム(以下、ゲーム)についても包括的に「コンテンツ」と捉え、政治・文化・経済・風俗など製作当時の時代的背景にも言及し、「文化史」という枠組を用いて研究しております。
戦後のコンテンツ文化の中にあって、ゲームというのは、誕生・普及の歴史こそ浅いものの、重要な位置を占めていることは間違いないのですが、他のコンテンツとの差異が大きく、一律に扱うには、やっかいな存在といえます。その最大の差は、ゲームを楽しむ人々が、単なる「消費者」ではなく、「プレイヤー」であることです。つまり他のコンテンツの場合は、どちらかといえば受身で作品を享受する「消費者」を対象としているのに対して、ゲームを楽しむためには、自らがゲーム内で設定された世界観やルールに沿って何らかの介入をする「プレイヤー」にならない限り、その面白さを体感できないということです†。インタラクティブなコンテンツであるゲームの楽しみ方は、プレイヤーの熱意や習熟度によって大きな開きが生じますし、費やす時間も変わってきます。
コンテンツの「消費者」を「プレイヤー」にするゲームの仕組みの構築は、コンピュータの普及と発達に依拠しています。つまり、ゲームの世界における「できること/できないこと」は、制作当時に現場で使える技術に左右されることになります。ゲームの歴史には、「それは面白いアイディアだけど、技術的に無理」という理由で実現できなかった部分を、テクノロジーの発達と併走しながら新たな技術を導入し、少しずつ補完してきた側面があります。技術的進化によって、グラフィックやシステムが改善されると、プレイヤーの負担はどんどん減少し、プレイ自体が快適化していきます。その一方で、技術的性能の進化に振り回される一面もありました。よくある宣伝文句の「快適なシステム」や「美麗なグラフィック」も、ゲームの「面白さ」に直結しなければ、ただの添え物、悪くすれば夾雑物となってしまいます。「技術的進化の独りよがり」というのは、言い過ぎでしょうか。
イギリスにおける1970 年代末のパンクムーブメントを引き合いに出すまでもなく、「制作者」サイドの都合によって、本来は人々を楽しませるための娯楽文化であるコンテンツの「産業化」「形式化」「様式化」「固定化」が促進され、それが質的にも数量的にも飽和状態になったとき、購入ターゲットであるファン層の欲求との齟齬が深刻化して、最終的には作品への忌避感が増幅され、大きな揺り戻しが起こることがあります。国内の他のコンテンツ分野に目を向けても、1970 年代に端を発する全国的な漫画研究会の増加や1980 年代以降の同人誌即売会の隆盛、1980 年代におけるアマチュアのアニメ制作集団のプロ化、自主レーベル設立を含むインディーズロックの勃興とバンドブームの到来など、本来は「消費者/ファン」であるアマチュアが、自分たちの欲するコンテンツを自分たちで作り出すべく「制作者」となって行動を起こし、プロとアマのボーダレス化が起こり、新たな「血液」が文化創造の現場に流れ込んでいく図式が見受けられます。
ゲームは技術の進歩に依拠する部分が大きいコンテンツですから、制作に関係する技術の平準化、ハード/ソフトの利便性向上とその普及などを待たねばなりませんでしたが、21 世紀になってから制作されたゲームを文化史的に捉えた場合、後世の歴史に名を残す作品の多くが、アマチュアによる同人/インディーの世界から登場してきたことは記憶しておくべきでしょう。他のコンテンツ分野では、すでにプロ/アマのボーダレス化に一定の歴史があるため、それがごく自然な状況になってきましたが、ゲームの場合は、いまだそこに「せめぎ合い」も垣間見えるので、より「おもしろいゲーム」が誕生する可能性を秘めているのではないでしょうか。