「ゲーム」という概念はどういう姿をしているの
著者: 井上 明人筆者は「ゲーム」という現象がどのような形で成立しているのか、ということを主に考えてきた。
何を考えてきたのか。問題をいくつか、示しておきたい。
コンピュータゲームにとどまらず「ゲーム」とは何か、という問を与えられたとき、ルール、ゴール、インタラクション、トレードオフといった要素をそなえたモノを「ゲーム」である、と考える人は多い。だが、ゲームというのはそもそも、そういった「モノ」なのだろうか。
ゲームを遊ぶとき、人は何かしらの快楽のようなものを覚える。快楽の種類にもいろいろある。ボタンのさわり心地がいい。笑える。感動する。エロい。……そして「ハマる」。
ボタンのさわり心地の良さも、笑いも、感動もエロも、ゲーム以外のものであってもかまわないが、「ハマる」というのはやはり、ゲームに特有の快楽「のように思える」。
「ゲーム」というのは、モノではなくて、現象のことである、という立場をとってみよう。すると「ゲーム」というものは、とたんに不安定なものに見えてくる。
特に、ゲームをやるつもりのない人に、口頭だけで我々はゲームを遊ばせることができるだろうか?「 よし! ここからあそこまで競争だ!」と、親が子どもに言うときがある。このとき、ゲームが成立するためには子どもの同意が必要になる。「いま、私はこのゲームをやっているのだ」という感覚を親子で共有できなければ、ゲームは成立しない。たとえば、子どもに通じないような外国語で「よし、ここからあそこまで競争だ!」と叫んだら、子どもはついてこない。
ゲームが始まった、ということが理解できないからだ。
ゲームというものが成り立つためには、ゲームへの参加者に「いま、ここで我々はゲームをするのだ。したいのだ」という感覚を共有させる必要がある。
これに比べると、ボードゲームは、<ボード>という参加者全てに、視覚的にゲーム構造を共有させる仕組みを持っている。いま、ここ、でどのようなゲームが行われているのか、という感覚を与える優れた道具だ。口頭で遊ぶゲームが、ジャンケンのような比較的単純なものしか、普及していないのに比べ、ボードゲームのルールの複雑さや奥深さは、圧倒的だ。
そして、コンピュータゲーム。これは、さらに強くゲームプレイヤーにとって「いま・ここでどのようなゲームが行われているのか」を意識させることに成功している。ゲームを遊ばせる手順を制御し、擬似的な遊び相手を生成する。
「いま・ここ、で私はゲームをしているのだ」という感覚を成立させること。その媒介項として機能してきたのは、ゲームのファシリテーター(よし、競争だ! を叫ぶ親)、ゲームボードあるいは、バーチャルスペースという囲い込まれた環境だった。
では、そういった道具立てがない場所での「ゲーム」はどう機能しているのか? 政治のゲーム/株のゲーム……日常の中にもさまざまなゲームがある。ゲームはゲーム機の中でだけ成立するのでもなければ、ゲームボードの上でだけ成立するのではない。ゲームという現象は、発生/継続/終焉というそれぞれのタイミングにおいてそのありようを変える。ゲームがゲーム「になる」瞬間。ゲームにハマる瞬間。当初のゲームの構造を逸脱した独自ルールで勝手にゲームが遊ばれるようになる瞬間。そして、ゲームが飽きられるとき。
ゲーム、という現象には、時間的・空間的な広がりがあり、そのどの瞬間のどの舞台を捉えるかによって、一見同じものが、実はまったく違った様相を持っていることがある。金太郎飴とは程遠い概念だ。
しかし。
金太郎飴とは異なった極めて複雑な様相を持ったものでありながら、我々は「ゲーム」というものを、ごく単純なものであるかのように感得してしまうことができる。それは、おそらく「自由」や「正義」「生命」といった巨大な概念が、実際には極めて複雑でありながらも、日常概念として理解できてしまうようなことと、おそらく同根の問題だろうと思われる。
ゲームを作る、ということは、この一見シンプルに見えて、とてつもなく複雑な広がりと対峙することである。とてもわくわくして、幸せなことではないだろうか。