ゲームは誰のものか
著者: 長久 勝この本を読んでいるあなたは、プロアマ問わず、ゲームを作っているか、ゲームを作る人になりたいか、いずれかだと思う。そんなあなたに、ここでは「ゲームは誰のものか」を考えるキッカケを提供しようと思う。
SNS が普及して、そこにゲーム開発者のコミュニティが育つまでの間、プロのゲーム開発者が「ゲームは誰のものか」を議論する機会は、極端に少なかったように思う。みんな、スゴいゲームをたくさん作った。作るべきゲームはいくらでもあり、それを楽しんでくれるユーザーがいた。「ゲームは誰のものか」を考える暇がないぐらい忙しかった。そんなことを考えるのは評論家の仕事で、たまに記事を読んで、へー、とか思うぐらいだった。
気がつくとゲームは社会の中に溶け込んでいた。30 代の人なら、子供の頃から、TV や雑誌などのメディアと接するだけで、そこにゲームがあっただろう。20 代の人なら、親と一緒にゲームを遊んできたかもしれない。気がつくと、ゲームを遊んだことがない人のほうが少ない社会になっていた。
昔は、ゲームを作る人が自分たちの遊びたいものを作れば、それがゲームを遊ぶ人が望むものになっていた。社会全体から見るとゲームを遊ぶ人は少数派で、ゲームを作る人と遊ぶ人は、ほぼ同じタイプの人たちだった。
しかし、今は違う。ゲームを作る人と違ったタイプの人たちに対して、ゲームに何を望むのか、どうやったらゲームを遊んでくれるのかを考えて、ゲームを作ることが多くなった。ゲームを遊ぶ人が増え、そのほとんどは、ゲームを作る人と同じタイプとは言えなくなった。ゲームを遊ぶ人の中で、ゲームを作る人が占める割合は低くなった。
昔なら「ゲームは誰のものか」という問いに対して「ゲームを作る人のものである」と言い切れたかも知れない。クリアすることでプレイは終わり、そのゲームを作った人(チーム、会社)の次回作に期待する、という構造は、ゲームを作る人の作家性を尊重することで成り立っていたと言えるだろう。
今は、ゲームを遊ぶ人が増え、そのプレイスタイルは多様を極め、もはやゲームを遊ぶ人という人物像は意味を持たない。据え置き機でアスリートのように戦うハードゲーマーから、空き時間にスマホをタップするだけのライトユーザーまでを、ゲームを遊ぶ人、と括ってしまう分類は無意味だ。ゲームを遊ぶのは当たり前で、どのように遊ぶかが違う、そんな時代になった。そう考えると、ゲームは「ゲームを遊ぶ人のもの」になったと言えるのではないだろうか。
その一方で、ゲームを作る人(+ハードゲーマー)とライトユーザーの間の溝を感じている人も多いと思う。ゲームが社会に広まった結果、そこにクラスタが生じ、断絶を生んでしまったのは、皮肉ではあるが、ゲームに関わる立場が多様化したのだから当たり前でもある。当たり前ではあるが、ゲームを作る人と遊ぶ人の連続性を取り戻す方法はないだろうかと、個人的には考えてしまう。
今の時点での私の答えは単純なものだ。ゲームを作る人はゲームを遊ぶ人でもあるが、ゲームを遊ぶ人はゲームを作る人ではない。この非対称性を解消するには、ゲームを遊ぶ人を、ゲームを作る人にしてしまえばよい。
ここ最近は、実際にそれを実現するために、『GoogleBlockly』を日本語化したり、『前田ブロック』にパッチを当てたり、お絵描きでゲームの素材を作る子供向けワークショップをやったり、「プログラマーは来なくていいです」なGlobal Game Jam をデザインしたり、ブラウザ上でノベルゲーム開発が完結する『アトラスX 改』を作ったり、いろいろ取り組んできた。ゲームを遊ぶのと同じぐらい手軽に、ゲーム作りを試せるようにしたいと思っている。
誰もが、ゲームを遊び、ゲームを作る。誰もが1 回はゲームを作ったことがある世界。小学校の図画工作でゲームを作る世界。おばあちゃんと孫が、折り紙で鶴を折るように、ゲームを作る世界。きっと、そんな世界が来る。それが「ゲームはみんなのもの」になった未来。
ゲームエンジンという概念の成熟によって、ゲーム開発初心者の学習曲線は大きく改善された。「ゲーム開発の民主化」が進行している。「ゲームはみんなのもの」になった未来、「ゲームの民主化」された世界は、この先にある。ゲームを作るスキルは、ゲームを作る文化になっていく。その仕事ができるのは、今、ゲームを作っている我々なのだと思う。