私が初めて、ゲーム開発者向け専門カンファレンスのGDC に参加したのは、2001 年春だった。その衝撃は忘れられない。ここまでお互いのゲーム開発についての情報を公開し合うのかとただただ驚いた。特に、ウィル・ライトの『シムズ』についてのプレゼンテーションは忘れられない。現在に至るまで、AI やユーザーコミュニティ形成の基礎的な考え方に影響を与えている。

当時のGDC は、現在のようにサンフランシスコのモスコーニセンターではなく、シリコンバレーのサンノゼコンベンションセンターで行われていた。まだ参加者は5 ~ 6 千人という規模だったように思う(2013 年現在は約2 万人)。日本語での情報は皆無に近く、その知名度もほとんどなかった。情報のない中で、ともかく行ってみれば何とかなるだろうと、ジャーナリストを始めたばかりの私は現地に赴いた。

そして、取材してみて確信したことがあった。日本のゲーム産業は、このままではイノベーションの速度で欧米圏に負けるという予感だ。当時、日本のゲーム会社は、世界から高い尊敬を集めていた。一方で、GDC では、日本のゲームがなぜおもしろいのかが盛んに議論され、分析されていた。

2001 年前後は重要な年で、日本の家庭用ゲーム機のソフトウェア市場規模は、北米のゲーム産業に追い抜かれる。その後、Xbox の登場によりPC 系テクノロジーが家庭用ゲーム機の技術として応用されるようになり、欧米企業が強くなっていく時期だ。だが、まだ日本では「洋ゲーは出来が悪い」と馬鹿にされていた時代でもあった。そして、日本では「会社間で交流を行わないように」と会社から指導が出るような閉鎖的な時代だった。

都市文化の著名な研究書『現在の二都物語』(アナリー・サクセニアン著)では、コンピュータ開発で先駆的な地域だった東海岸のボストンが、なぜ、西海岸のシリコンバレーに負けたのかが扱われている。その重要な要因として、著者は、閉鎖的な文化を持つボストンに比べ、シリコンバレーの強さとして、「オープンな技術コミュニティ」が育った地域文化を挙げている。「業界団体の会合や業界会議から、トレード・ショーや趣味のクラブまで、公式、非公式のさまざまな集まりも、情報交換の場になった」。これが時に競争を生み、時に協力を生むことで、イノベーションを加速化し、技術への変化に迅速に対応できる企業や組織を生みだし続けたのだ。「ファミコン」誕生からわずか5 年後の1988 年に始まったGDC も、この文化に影響を受けていることを後に知る。

一方で、日本では2001 年当時、こうした積極的な情報交換の場はほとんどなかった。生まれて間もなかったCEDEC(CESA デベロッパーズカンファレンス、2011 年よりコンピュータエンターテインメントデベロッパーズカンファレンスに改称)は、主催する家庭用ゲーム会社が運営する業界団体CESA の会員企業でさえ、その存在を知らない状況だった。私の中には、日本でも開発者コミュニティが育たなければ、日本はそれだけ遅れを生むという漠然とした焦りが生まれた。

翌年のGDC で、ゲーム開発者個人を対象とした業界組織のIGDA に出会う。アメリカを中心に世界各地に支部組織が広がろうとしている時期だった。GDC 会期中に行われる年次総会で、「国際」と言いつつ、「日本はどうなっているのか?」と当時エグゼクティブディレクターだったジェイソン・デラ・ロッカに聞くと「誰かやってくれないか」と逆に言われた。当時の私の語学力はひどいもので、片言の英語で「私がやってみるよ」と、引き受けたのがIGDA 日本の始まりだった。

スタート当初は「こんなコミュニティなど成り立たない」と言い切られたこともあった。しかし、結果的に多くの人が関わってくださり、CEDEC や東京ゲームショウ、DiGRAJAPAN や福島GameJam の開催など、様々な形で貢献することができる組織に発展した。その何年もの積み重ねを通じて、IGDA の全世界の支部の中でも、IGDA 本体から「スーパーチャプター」と呼ばれる存在にまでに成長している。

IGDA 日本は、新しい運営チームへと変わったが、今後も、多くの人と協力しつつ、ゲーム産業の発展のために、一翼を担い続けるだろう。そして今では、日本に様々な開発者コミュニティが存在することは当たり前になった。その多様性が存在すればするほど、イノベーションは加速化され、日本のゲーム産業は強くあり続ける。コミュニティは競争力の源泉なのだ。

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